無職の画家が味わった!東京での過酷な社会人生活?


こんにちは!
 
ファッション絵師の
Shingoです。
 
 
希望する職種での
仕事環境を求めると
どうして東京
意識が向いて
しまうのでしょうか?
 
東京
 
東京には
夢を叶えるための
出会いやチャンスが
たくさんありそうだから?
 
 
東京の大企業に
就職出来れば
お金持ちになれて
将来、安泰だから?
 
 
東京に住めば
芸能人と
知り合えそうだから?
 
東京
 
そんなイメージを
抱いてしまう東京とは
どんな街なのでしょうか?

 
 
私は当時
無職で頼る当ても無いまま
慣れ親しんだ京都を
離れました。
 
 
期待と不安を
胸に抱きつつも
東京・高円寺での新生活を
一人静かに
始めるのでした。
 
 
 

「家賃¥22,000・4畳半風呂無しアパートでの新生活!」

JR高円寺駅南口から
徒歩10分以内にあった
 
木造アパート
 
木造・築20年以上
 
木造アパート
 
4畳半の
風呂無しアパート
 
木造アパート
 
裸電球1つの曇りガラス
 
 
昭和を感じさせる
売れない漫画家が
住む様な
貧相な部屋でした。
 
 
家賃 ¥22,000
水道代 ¥2,000
電気代 ¥1,000
 
 
自炊をしていなかった事も
ありガスは入居時に元栓を
閉めてもらいました。
 
 
なので、ガス代 ¥0
 
 
食費・その他雑費を
差し引いた
1ヶ月にかかる
必要最低限の
生活費 (家賃+公共料金)
の総額が
¥25,000でした。
 
 
引っ越して来た高円寺は
 
高円寺
 
スーツ姿のサラリーマンを
ほとんど見ない
 
高円寺
 
不思議な街でした。
 
 
 

「無職で半年間、貯金だけで食いつないだ就活の日々」

京都にいた時から
東京でゲームクリエイター
になる
目標としていました。
 
ゲーム
 
上京後
無職だった事もあり
躍起になって
都内のゲーム制作会社へと
アプローチをかけました。
 
 
しかし
ことごとく書類審査や
面接で落ち続け
私は自暴自棄になりました。
 
ショック
 
さすがに無職で
貯金だけで食いつなぐ
のにも限度がありました。
 
 
危機的状況へと
追い込まれる中
私はゲームクリエイター
への道を断念しました。
 
 
その後
職種を2Dデザイナーとし
思いつく限りの企業へ
向けて必死のアプローチを
かけ続けたのです。
 
 
もう、後が無い!
 
 
そして
ついにアパレル企画会社の
デザイナーとしての
採用が決まり
半年間の就職活動と
無職の生活にようやく
終止符を打つ事が
出来たのです。
 
ファッション 
 
その後
アパレル企画会社にて
1年2ヶ月間働きました。
 
 
 

「社会の洗礼を受けた某テレビ局での生き地獄な日々」

アパレル企画会社を退職後
登録派遣会社の斡旋を通し
派遣先の某テレビ局内で
2Dデザイナーとして
仕事を始めました。
 
 
そんな中
私が最も苦手とした
業務がありました。
 
 
それは…
 
電話
 
電話での質疑応答です。
 
 
思い返せば
幼少の頃より
電話を自らかける事と
 
電話
 
かかってきた電話を
取る事が何よりも
苦手だったのです。
 
 
当時
中途採用での新人だった
私は周囲からの突き刺さる
視線と失敗してはいけない
という過度のプレッシャー
を感じる中で
日増しに自分を
追い込んでいきました。
 
 ストレス
 
そして
周囲との
コミュニケーションが
徐々に減っていきました。
 
ストレス
 
とにかく
クライアントから
かかってくる電話が
何よりも
恐怖だったのです。
 
孤立
 
私は社内で孤立しました。
 
孤立
 
精神的ストレスからくる
体調不良が原因で
敢え無く退職
2ヶ月間の
生き地獄だった日々に
終止符を打つのでした。
 
 
当時の私は
社屋の最上階にあった
展望喫茶にて
1人静かに
ブランチをとりながら
 
レインボーブルッジ
 
レインボーブリッジを
眺める事が
心の平和を保つための
唯一の安息だったのです。
 
 
 

「絵が上手くなりたいと思いつきアニメーターになる!」

退職前
東京・中野にあった
画廊にて
 
石田真吾 個展 
 
初個展を
開催していた事もあり
 
石田真吾 個展
 
私は退職後も
自宅アパートをアトリエに
職探しをする傍ら
絵を描き続けました。
 
 絵を描く
 
そんな中
私は自分の絵の技量の無さに
絶望してしまいました。
 
絶望
 
なぜならそれは
頭と心の中には既に
独自の絵の世界観
あるにもかかわらず
 
石田真吾
 
それを素直に
表現出来ない事への
 
石田真吾
 
自分に対する
もどかしさと未熟さを
知ったからです。
 
 
私は単純に
自身の画力・描写力の無さ
が未熟さの原因だと悟ったのです。
 
 
当時私は
人物が巧く描けなかった事
画家としての
劣等感をもっていました。

 

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以下に投稿しています。
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てお金を稼ぎ自由に生きる
と言う事

 

そこで私は画力を磨く事で
人物が上手に
描けるようになればと
アニメーターの仕事を
する決意をしたのです。
 
アニメ 
 
未経験だったにも関わらず
私は
駆け出しの動画マンとして
 
動画
 
仕事の取り方から
クライアントへの
請求書の作成に至るまで
キャリアのある
先輩アニメーターから
手取り足取り
教わりました。
 
 アニメ
 
絵を描く仕事は純粋に
楽しかったのですが
動画1枚の単価が
安過ぎるために
安定した収入を
得られなかったのです。
 
 お金
 
やがて
生活が困窮し敢え無く
 
困窮
 
私はアニメーターを
断念したのです。
 
 
ここで当時の私の
アニメーターの仕事の
内情をお伝えします。
 
 
動画1枚の金額 が
平均単価¥200でした。
 
 
絵の密度にもよりますが
私が1日で
どれだけ集中して描いても
20枚が限界でした。
 
 
作業時間は関係なく
1枚・¥200×20枚
で計算すると
日給・¥4,000
となります。
 
 
仕事が引きも切らずに
あるわけではなく
月給・¥100,000
を切る事も
珍しくはなかったです。
 
 
今や世界中から
高い評価を受ける
日本の商用アニメですが
その根幹を影で支えている
日本人アニメーターの
困難な労働待遇の実体は
 
生活困窮者
 
生活困窮者を
生み出さずに負えないほど
辛く厳しい現状なのです。
 
 

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